福川 淳個展

2013.9.19(木) ‐10.05(土) 水曜日休廊

12:00-19:00(日曜日18:00/最終日17:00迄)

 

福川 淳(Fukukawa Jun)

1991 成城大学文芸学部芸術学科卒
1991 渡仏
1994  salon saga decouvert94. Galerie Alain veinstein(パリ)より出展
1997  ギャルリーアールヨミウリ(パリ)個展
1999  大丸(京都)個展 
2000    saachi and saachi gallery(東京)個展
2002  ギャラリーオキュルス(東京)個展
2005  standard chartard bank(東京)個展
2006  ビーチェ(東京)個展
2007  アイルランド大使公邸グループ展(東京)
2011  shift→311展(広島)
2012    損保ジャパン美術財団選抜奨励展

福川 淳個展のご案内 

O JUN   

 

二年前、わたしはあるコンペに福川淳を推薦した折に、カタログに彼の推薦理由として短い文章を書いた。

その時、彼の描いた鹿の絵に触れて、首から上に“静謐”が、胴体部分に“野蛮”が棲みついている…と書いた。当の画家は自作について、“具体的なモチーフを描いて抽象に至れば…”と書いていた。

二人の言葉は遠からず同じ方向を言い指しているが、昨今のアイコンとキャラをこれでもかとてんこ盛りにしたオハナシ絵画が活況を呈している状況のさなかで、彼の絵はどのように人の目に映るのだろう。

と言うのは彼もまた、ディズニーのキャラクターを描いているのだ。

白雪姫やミッキーやクマのぷーさんを絵にしている。では、オハナシしているのかと言えば、“まるでオハナシにならない”ような絵を描いている。彼はアイコンやキャラクターを肯定も否定もしていない。

それを受け入れるか否かのレベルに図の意味を設定していない。踏み絵を踏むことと踏まないことはどちらにせよまるで異なる物語りを語ることになるわけだが、彼はどちらの物語も語らない。ではなぜアイコンやキャラクターを描くのか?踏み絵を踏もうか踏むまいか、降ろした足はそのいずれにも降ろさずに結晶化しない別な場所を踏もうとしている。そのためにあえて、踏み絵ではなく、“虎の尾”を踏んでみせている。わたしたちの現在の状況、感情や感覚世界、イメージに対する静かだが痛烈な批判とみてよいと思う。彼の絵を見るわたしの目は、つくづく見慣れたイメージを眺めながら実は一向にその形をなぞり得ないで画面の数センチ上でさ迷っている。

鹿は、剥製なのだそうだ。死して後さらに人の手で生前の面影を強引にとどめられた形骸だ。福川淳はそれをまたさらに絵に描きとどめる。白雪姫も形骸だ。剥製の鹿と同じ構造だ。そのせいか、どこか居心地のそう良くもなく、それでいてあっけらかんとも見える。澱を沈めているようにも突き抜けているようにも…どこか得体の知れないものに触れている気がする。わたしたちは、意味や理にまみれている何がしかの形が「絵」に描かれた途端、全部が台無しになってしまい、そのおかげであらゆるくびきから解かれて晴れ晴れと輝く事態があることにまだ眼が慣れていない。だから少しづつ眼を慣らしていこうと思う。わたしたちの絵のレベルは、英語でいったらまだLesson1だ。でも、福川淳はその最後のページのあたりにはいると思う。7年余りのヨーロッパ(パリ)滞在を経て帰国し、その後も徒に時流に乗ることをよしとせず今日まで描き続けてきたこの画家の「絵」をしっかりと見ておきたい。

 

hakusei,162×130, acrylic on  canvas
hakusei,162×130, acrylic on canvas
untitled,162×112, acrylic on  canvas
untitled,162×112, acrylic on canvas
untitled,72×72, acrylic on  canvas
untitled,72×72, acrylic on canvas
untitled,18×14, acrylic oil on  canvas
untitled,18×14, acrylic oil on canvas
untitled,116×40, acrylic on  canvas
untitled,116×40, acrylic on canvas

展覧会風景